Text by Yuki Kawasaki
真にコロナ禍以降の音楽が出てきている。2021年の3月にUNKLEがミックステープ『Rōnin』をリリースした際、彼はこう述べていた。「最近の曲に関して、『まるで歌詞がパンデミック以降の状況を言い当てているようだ』と評価されている場面によく出くわす。しかしその楽曲がレコーディングされたのは、往々にしてウイルスが世の中に蔓延する前なんだ。多くの争い、政治的変化や不安は以前から存在していた。パンデミックはそれらを顕在化させたに過ぎない」。
すなわち、変化があったのは我々の側である。そう考えると、作り手のアウトプットとして社会を反映した音楽が出てきているのは、ごく最近のことなのかもしれない。アテネのレーベル〈Bedouin Records〉からリリースされた、Mars89のフル・アルバム『Visions』もそれにあたるように感じられる。
ヘッドフォン・ミュージック的でありながら、フロアまで射程が伸びている。この2年間に休止と再開を繰り返していたクラブ・シーンを考えると、フロアとベッドルームの間で揺れ動く曖昧さこそがリアルであるように感じられる。もとよりMars89は、オーセンティックな4つ打ちを志向するプロデューサーではない。DJでイーブンキックの曲をかけるにしても、多くの場合はそこにオルタナティブな意味を持たせている。彼のディスコグラフィーを参照すると、より実感を持てるはずだ。
しかし本作においては、4つ打ちの割合が比較的多い。1曲目の「They Made Me Do It」からして、中盤からフロアコンシャスなキックが鳴り響く。確かに4つ打ちは、ダンス・ミュージックにおいて支配的な方法論だ。けれどもそれは、パンデミック以前の話であるようにも思われる。ダンス・ミュージックの所在が曖昧なコロナ禍以降は、“4つ打ち”さえもテンプレートから外れているのではないだろうか。言うまでもなく、今作のMars89も権威主義や大資本に対してアンチズムを掲げている。そのスタンスに変化がない中、彼がプロダクションに無頓着であるはずがない。
そしてもうひとつ、本作では“都市”が印象的に語られている。予てより彼は街の情景をテーマに作品を発表してきた。2021年3月にリリースされた『New Dawn』は音の位相の変化やVR表現でもって空間を描き、続く『Night Call』ではシステム・ミュージックでもって“渋谷”という具体的な街をテーマに据えている。本作で描かれる“都市”は、より寓話的だ。“metropolis(大都市)”の対義語である“Hinterlands”をタイトルにし、権力勾配を可視化してみせる。あるいは、この表題はボード・ゲーム『ドミニオン』の拡張キットの名前から引用したものかもしれない。『ドミニオン』は、中世欧州の小王国の領土を拡大してゆくゲームだ。新バビロニア王国の王の名を冠した「Nebuchadnezzar」も謎多きトラックである。2021年2月、同名の都市建設シミュレーションゲームがリリースされた。インディ・ゲームとして発売された本作は、古代メソポタミアを舞台としている。
これらがすべて関連していると仮定した上で話を進めるが、「Hinterlands」しかり「Nebuchadnezzar」しかり、都市をプロトタイプする作品なのである。それらをリファレンスにしながら、Mars89は『Visions』で都市構造に潜む不条理や情念を描いている。それはさながら、SFスリラーの『スノー・ピアサー』のようである。
しかし、かのディストピア・ムービーよりも本作は遊び心があり、ややシニカルだ。なお、現在Bandcamp内でヴァイナル盤発売に関するクラウドファンディングを実施中。ぜひそちらもチェックしてもらいたい。
参考: Help Us Press Visions On Vinyl
【リリース情報】
Mars89 『Visions』
Release Date:2022.05.06
Label:Bedouin Records
Tracklist:
1. They made me do it
2. Tete Apotre
3. Good hunting
4. Auriga
5. Dick Laurent is dead
6. Hinterlands
7. Flatliner
8. Nebuchadnezzar
9. Goliath
10. LA1937