新鋭ヒップホップ・クルー、DENYEN都市のメンバーとしても知られる浅井杜人がニュー・シングル「いれずみ」を本日12月29日(水)にリリースした。
DENYEN都市ではwho28、yo、teitarakuなどキャラクターの立った面々のなかで、低音の効いた落ち着いたフロウで個性を放っている浅井だが、ソロ名義ではギターを多く取り入れたメロウなトラックで、情感豊かな世界観と物語を想起させるようなリリックを展開。もはやラッパーというよりはSSWという肩書きが相応しい、横断的な音楽性を特徴としている。
また、浅井はポニーキャニオンが運営する音楽配信サービス「early Reflection」と「Styrism」による新人オーディション『early Impulse』の9月度最優秀アーティストにも選出。今後はソロでの活動でもますます注目を集めそうだ。今回はそんな浅井の地元・熊本時代からの原体験とルーツ、そしてここまでの足取りを振り返るロング・インタビューをお届けする。
Interview & Text by Takazumi Hosaka
Photo by Maho Korogi
iPod、The Smiths、ハード・ロック、映画、サイファー――浅井杜人のルーツ
――小さい頃から母親の影響で70年代〜90年代のロックやソウルに触れてきたそうですね。
はい。母親が元々スケーターで、カルチャーに詳しい友人がいっぱいいるんです。その中でDJをやっていた人から、小さい頃にiPodをもらったのが音楽に最初に触れたタイミングです。Stevie WonderやMarvin Gaye、The Beatlesなどなど、最初はめちゃくちゃ好きだったわけじゃないんですけど、その当時の自分にとって“音楽”といったらそのiPodに入っているものっていう感じで、他の音楽にはあまり触れていなかったですね。あとは母が車でかけてたクラシックもよく聴いていました。
――それが小学生くらいの頃ですか?
小中くらいですね。高校生になってからはレンタル・ショップでCDを借りたり、中古屋でCDを買うようになって。基本的にはジャケ写の雰囲気とかで選んでたんですけど、そのうちにNirvanaに出会って。これも最初はあまりよさがわからなかったんですけど、徐々にカッコよさがわかってきて。あとはWhite StripesやThe Strokes、The Smiths辺りも好きで……特にThe Smithsは大きかったですね。Johnny Marr(The Smithsのギタリスト)に憧れて、「ギターやりたいな」って思ってた頃、親父からたまたま「ギターば弾け」って言われて。親父は離婚してるので、1週間に1度くらいしか会わないんですけど、セカスト(セカンドストリート/総合リユースショップ)に連れてかれて、〈FERNANDES〉の「ZO-3」っていうスピーカー内蔵のギターを買ってもらったんです。そこまでは嬉しかったんですけど、親父はVan Halenや布袋が好きだったので、いきなり速弾きを練習させられて。それがつまらなくて、普通にギター嫌いになっちゃって(笑)。
――(笑)。The Smithsが好きだというのはちょっと意外でした。
The Smithsも最初は理解できなくて。というか、あまりにも理解できないから聴きまくってたんです。そしたらあるとき、母が車の中でかけていた「Bigmouth Strikes Again」を聴いたときにいきなりその魅力がわかって。母も若い頃The Smithsにハマったみたいで、すごく喜んでくれましたね。Morrissey(The Smithsのボーカル/ソングライター)のエグい歌詞とかにもすごく惹かれて、友だちとは共有できなかったけど、家でひとりでよく聴いていました。
――話を戻しまして、ギターを嫌いになってしまったその後は?
ギターを嫌いになって、1年くらい触らなかったんですけど、あるとき熊本市のライブハウスに友だちのバンドを観に行ったんです。そしたらその友だちが超カッコよくギターを弾いてて。音作りもめっちゃよくて、かなり喰らいました。それからギターを引っ張り出してきて、再度練習して。そのバンド界隈はみんなハードロックとかヘヴィ・ロック、ハードコアなど、熊本でもすごく尖った音楽をやっていて、髪も真っ赤に染めていたり。そういうやつらに影響されて、そこからはハードロック漬けでした。
――バンドを組んだりも?
はい。今話した自分にまたギターを弾きたいって思わせてくれた友人と組んで、毎週のように原付で熊本市内までギター背負って行ってました。ただ、高校の終わり頃、そいつが留学することになって。新しいメンバーを入れたりとかもしたんですけど、そいつもまた進路の関係で抜けちゃって。どうしようかなっていうときに、別の友だちから地元・菊池市でサイファーというものが開かれていることを知って。そこに遊びに行ったら、ビートを流してみんながラップしてて、「うわ、地元に音楽やってる人いたんだ」っていう感じでした。
しばらく通ってたら、そこに来てるやつにCommonの『Be』(2005年)のCDを借してもらったんですけど、1曲目の「Be (Intro)」にめちゃくちゃ喰らって。自分もビート作りたいなって思ったんです。実は自分は演劇もやりたいと思っていて、ちょうど音効用にSP404(サンプラー)を持っていたんですよ。
――演劇?
はい。高校時代は映画も作っていたので、その流れで。母親やその友人の影響で、小さい頃から映画はよく観ていたんです。地元の菊池市では映画祭が毎年開催されていて、元々は韓国との交流を深める『菊池韓国映画祭』だったんですけど、2016年からは震災復興へ向けて行定勲監督がディレクターを務める『菊池映画祭』になって。地域全体で映画を盛り上げていこうっていう空気があるんです。なので、自分も市役所に企画書を書いて持って行ったら、市の予算で映画を撮らせてもらえることになって。自分が脚本を書き、iPhoneで全部撮って、上映会まで開きました。そのせいで高校の2年からほとんど学校には行ってなかったですね。
――すごい行動力ですね。
初期衝動に近かったと思います。「映画を撮りたい」「撮るためにはどうしたらいいんだろう」っていうところから考えて。興味ありそうな友だちを誘って手伝ってもらったり、市役所のカッコいい職員さんに声かけて俳優として出演してもらったり。ちなみにその市役所の人にはBLANKEY JET CITYのCDを貸してもらって、今もBLANKEYは大好きです。
――脱線してしまいましたが、サイファーに通うようになってからはビート制作に集中するようになったのでしょうか。
そうですね。ビートを作って持っていって、みんながそこにラップを乗せるっていう感じで。ただ、そのサイファーも徐々に人が減っていって、最終的には自分と最初に誘ってくれた友人だけ、みたいな感じになっちゃいましたけど。
――ちなみに、DENYEN都市のメンバーではyoさんも熊本出身ですよね。
そうなんですけど、yoと知り合ったのは東京なんですよ。さっき話した、熊本のDjangoっていうライブハウスを拠点とする界隈に彼もいたみたいで。狭い界隈なので、向こうは俺のことをちょっと知ってたっぽくて、ビートを作り出してからもSNSでフォローしてくれてて。高校卒業後、自分は自主制作で映画を作った功績などが認められて、東京の映画の学校に通う予定だったんですけど、ちょっと色々あってダメになっちゃって。でも、気持ちはもう東京に行きたくなってて。そんなとき、母の元恋人で今の自分の面倒を見てくれている浅井に仕事を紹介してもらって、上京することにしました。ややこしいんですけど、今自分が名乗ってる浅井っていう名字は実の父の名前ではないんです。
――なるほど。
yoと初めてちゃんと会って喋ったのは、ラッパーの唾奇さんが渋谷でストリート・ライブをやったときですね。それからツルむようになって、yoも音楽を作り始めて。ビートの作り方を教えてあげたら、週5とかで「こんな曲作ってみた」って連絡くれるようになった。俺とは違って彼は頭がいいので、気づいたらPCでDTMソフトも扱えるようになってたし、理論も勉強してて。成長速度が半端ないんです。
「時の流れそのものがアート」――オーディオ道場・館長の言葉
――この流れで、DENYEN都市の結成の経緯についても教えてもらえますか?
yoが同じ大学のH.O.P.E.さん(DENYEN都市のプロデューサー)を紹介してくれて。H.O.P.E.さんは大学の部室を改造して勝手にスタジオにしてるんです(笑)。最初は2人がyo & H.O.P.E.名義で作品を作っていたんですけど、そこに東京のサイファーで出会ったteitaraku(DENYEN都市のメンバー)と俺が客演で入ることになって。それが実質的にDENYEN都市の1stアルバム『FOCUS』なんです。
アルバムとしてパッケージングする前に1回ライブをしたら、メジャー・レーベルの新人開発の人が声を掛けてくれて。後日改めて顔合わせしたんですけど、「正式な名前がないと会社にプレゼンできない」って言われて、そのときトイレ入ったら玉置浩二さんの「田園」が流れていて、「これでいいや」って(笑)。
――(笑)。てっきり田園都市線沿いを拠点にしているのかと思ってました。
人から言われるまで東京に田園都市線っていう路線があることも知らなかったし、誰一人として田園都市線沿線には住んでないです(笑)。後ろに「都市」を付けたのは、東京事変的な名前にしたかったからで、本当に理由はないんです。その場で速攻決めました。
DENYEN都市の名前、よく聞かれるけど田園都市線あるの知らずにつけた。名前決めてくださいって言われて個室トイレで何にしよって携帯開いたら、玉置浩二の田園流れてて、それで。
— 浅井杜人 asae morito (@denyentoshiasae) December 23, 2021
――それから「Darling ダリィよ」のヒットなどもあり、DENYEN都市は急速的に注目を集めるようになっていきました。浅井さんはそれと並行してソロ・プロジェクトも進めていたんですよね?
そうですね。ずっとSoundCloudやYouTubeでは曲を発表していたので、いつか正式にリリースしなきゃなと思いつつ、中々これといったものができず。下手なクオリティの作品は出したくないなっていうのと自分がすごく飽き性で、作ってから1ヶ月も経っちゃうと「これはもういいかな」って感じてしまうんです。1stシングルとしてリリースした「DRUG DEALER JACK」はyoが持ってきたピアノのサンプルに俺がドラムを組んで乗っけてみたらちょうどいい塩梅になって。ポップ過ぎるのも違うなって思ってたので、あのバランス感覚が自分にはしっくりきたというか。
――初の正式なソロ・シングルをリリースしてから、何か自身の心境などに変化はありましたか?
ストリーミングなどで聴かれると、一応お金になるわけじゃないですか。だから数字やリアクションをいつも以上に気にするようになりましたね。「再生数こんなもんなら、次はもっとヤバいの作ってやろう」って思うようになりました。DENYEN都市のメンバーはみんな作品のリリースの順番や発表の方法をすごく真剣に考えているので、彼らからの影響もあるかもしれません。ただ、それがいいことなのか悪いことなのかわからないんです。過去に発表した曲のなかには、めっちゃ想いを込めて作っても全然再生されなかったものもあるし、逆にサクッと作った曲がたくさん再生されることもあったので。
――では制作面ではいかがでしょう? ソロ・プロジェクトを正式に始動させてから、何か変化は起こりましたか?
サンプリングでビートを作ってきた自分と、ギターの弾き語りで曲を作ってきた自分がいて、これまでは曲毎にどちらかに振れている感じだったんですけど、1stシングル以降はやっと上手く混ざり合ったなという感覚があります。
――11月にリリースされた1st EPの『時間難民』というタイトルは、学生時代に通っていたジャズ喫茶「オーディオ道場」の館長からのアドバイスに由来しているそうですね。館長さんとのエピソードなどについてお聞きしたいです。
ジャズ喫茶というか何というかっていう感じのところなんですけど、自分は浅井に最初連れて行ってもらいました。道が入り組んでいて、地元の人じゃないと辿り着けないと思います。館長の片山さん(片山昇)は元美術教師で今はスピーカーの設計技師であり時計のコレクターで、かなりぶっ飛んでいる人なんです。元は片山さんのお父さんが建てた剣道道場を引き継いで、アトリエのように使っているという感じで。自分は原付でよく通っていて、行くと片山さんが一方的に喋り続けるんですけど、知識も経験も豊富で、説教臭くもないし、聞いていてすごくおもしろいんですよね。
――タイトルに由来したアドバイスというのは?
『時間難民』というのも片山さんの言葉なんですけど、「時の流れそのものがアートである」っていうのが彼の一貫とした人生のテーマみたいなものらしくて。道場には普段からお金では買えないような貴重なオーディオ機器やスピーカーが乱雑に置いてあるんですけど、熊本大震災が起こったときは凄まじくて。道場自体は無事だったんですけど、中はグチャグチャで、離れは全壊。俺が原付で様子見に行ったら、スコップ片手に片山さんが出てきて「手伝え!」って言われて。一緒に作業してたら、「こうやって破壊しては再生することがアートなんです」って言ってたんです。この過程も、ここまでの流れも全てがアートだと。その言葉にはすごく感化されたし、アートと向き合う人のカッコよさに気づいたのはそのときなのかもしれません。
道場には片山さんが過去に描いてきた絵もいっぱい飾ってあるし、片山さんが集めた時計もめちゃくちゃあって。そこには片山さんのこれまでの時間、人生がめちゃくちゃ詰まってるんです。それがすごくいいなと思って。俺も自分にとって意味のある作品、自分の時を刻む作品を作りたかったので、片山さんの言葉をタイトルに掲げました。曲毎に言っていることやストーリーはバラバラだけど、作品全体としては時の流れを意識した作品になっています。
――EPは片山さんに聴いてもらいましたか?
いえ、片山さんはガラケーしかもってなくて、その電話も道場に行ったとき、不在だったら呼んでねっていう感じのものなので、基本的には行かないと話せない。最後に会ったのは1年くらい前なんですけど、東京からシンガーの友だちを連れて行ったんです。道場に置いてあるピアノを引きながら2人で即興でセッション的なことをしていたら、それを聴いていた片山さんが泣いちゃって。「私は末期癌でもう長くないし、これからは君たちの時代だ」って言ってくれて。……正直、片山さんの話ってどこまでが本当かわからないんですけど、涙を流した姿を見たのは初めてだったので、ちょっと気になってますね。
――最後に挿入されている会話も片山さんの声ですか?
そうです。YouTubeに上がっている動画なんですけど、そこで話してる内容がよかったのでサンプリングしちゃいました(笑)。
「過去の自分が報われた感じもする」――創作活動を続ける理由
――浅井さんのリリックは物語的なものが多いものの、わかりやすい、直球のメッセージなどはあまり出てこないですよね。どちらかというと抽象的、散文詩的なものが多い印象です。リリックはどういったことを意識して書いていますか?
リリックは音楽の中で一番大事だと思っていて。もちろんトラックもこだわっているんですけど、サウンド面で他の作品と似たり、被ったりすることはある程度しょうがないというか、避けられないと思っていて。それに比べるとリリックはその人の体験、人生から出てくるものだし、それを自分で歌い上げるので、被ることはありえないなと。
基本的に全部自分のことを歌っているつもりなんですけど、自分のものだけにはならないように、架空の物語や世界観に投影しています。とはいえ、結構具体的な固有名詞とかも使っちゃうんですけど。
――「フェアレディZ」は女性目線で綴られていますよね。
女性目線で書くのは自分の癖なんですよね。そうした方が書きやすいというか。あと、『時計じかけのオレンジ』や『ライ麦畑でつかまえて』みたいに、一人称で綴られた本が好きなんです。語り口調で綴られていると、すごく頭に入ってきやすいというか。だから自分のリリックもそういうものが多いんだと思います。
――EPには1曲のみ福岡のビートメイカー・Junes Kさんが参加しています。彼とはどのようにして繋がったのでしょうか。
東京出てきて初めて自分の曲を作るときに連絡して、ビートを提供してもらったのがJunes Kさんなんです。元からビートを聴いてて、めっちゃいいなって思ってたので。EPに収録されている「Time」という曲も、元々はSoundCloudにUPしていたんですけど、すごく気に入っている作品だったので、今回ラップを取り直して。ちゃんとリリースしないともったいないし、失礼かなと思ったんです。
――2021年最後のリリースとして、新曲「いれずみ」も発表されました。エフェクトがかったボイス・サンプルが印象的なナンバーですが、この曲はどのようにして生まれたのでしょうか。
これはyoの家で作った作品です。彼の生活は大学行ってるか家で曲作ってるかしかないので、大学に行ってる間にPCを借りて、見様見真似でトラックを組んでいきました。見つけてきたサンプルをスライスして、ギターを入れてみたらいい感じになったので、そこからラップを乗っけて……っていう、かなり直感的に作った曲ですね。
リリックは自分の実体験をベースに書いたものなんですけど、日々感じているしがらみというか、そういうヴァイブスで書いた作品です。ただ、色々な解釈ができるように、敢えて抽象的にしている部分もあります。
――他の曲に関しても、ポジティブな雰囲気の曲は少ないですよね。
確かにそうですね。自分でも何でこんな暗くなっちゃうんだろうって思うときもあるんですけど。DENYEN都市での制作はみんなで楽しく作っているので、めっちゃポジティブな感じになるんですけど、ひとりで作ってるときは自分から出てくるストーリーがフラストレーションとか負の感情ばかりなんですよね。楽しい時間はすぐ過ぎてしまうし、楽しかった記憶って曖昧なことが多いじゃないですか。それに比べて、辛かったことや記憶は鮮明に残っている。そういう記憶を曲にすることで、過去の自分が報われた感じもするんですよね。「最低な出来事だったけど、ちゃんと作品に昇華することができたじゃん」って。
――それが浅井さんにとって音楽を続けている、続けられる理由にもなっているのでしょうか。
かもしれないですね。あとは、やっぱり近い仲間からいい反応とかをもらえると、「やっててよかったな」って思います。自分は絵も書くんですけど、ずっと何かしらの創作活動は続けていきたいなと思っていて。そうじゃないと、どうなってしまうんだろうっていう恐怖心もあります。元々暗い人間ですし、創作活動があるからこそ、精神をある程度健全な状態に保てているのかなと。
――最後に、今後予定していることがあれば教えて下さい。
引き続きDENYEN都市の作品も制作してますし、もっとソロでもレベルアップしていきたいですね。ひとりでやっているとどうしても壁にぶつかってしまうことが多いので、色々な人と一緒にやってみたいです。例えばバンドと一緒に制作やライブができたらいいなって。自分はラッパーとして見られることが多いから、基本的にクラブでライブしてるんですけど、ソロの曲は暗いし、「お前ら盛り上がってるか!」って煽るタイプでもない。じっくりとホール会場とかでライブできたら嬉しいですね。それこそロイヤル・アルバート・ホールとかでライブできたら最高です。大好きなbjörkやMassive AttackがライブをしていたRoyal Albert Hallとかでやりたいです。
――自身の大きな目標、夢などを挙げるとすると、Royal Albert Hallでのライブになるのでしょうか。
いや、夢を挙げるとするならばムーミンの世界に行きたいです。北欧の森の中にコテージを建てて、ずっと釣りとかをしてたいですね。ムーミンのスタイルがめっちゃ好きで。
――ムーミンのスタイル?
ムーミン谷にあるムーミン・ハウスには鍵がかかってないんですよ。それはどんな人も拒まずに、自由に入ってきていいよっていうことで。だから、ムーミン・ハウスには色々な人が来るし、そこにはボーダーも差別もない。価値観を押し付けることもないし、みんながフラットなまま平穏に生きている。そういう世界に憧れます。……まぁ、シンプルに老後は田舎で暮らしたいっていうだけかもしれません(笑)。
【リリース情報】
浅井杜人 『いれずみ』
Release Date:2021.12.29 (Wed.)
Tracklist:
1. いれずみ
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浅井杜人 『時間難民』
Release Date:2021.11.10 (Wed.)
Label:浅井杜人
Tracklist:
1. Soul Kitchen
2. Lucky Strike
3. フェアレディZ
4. Time
5. ヒステリック・ラバー