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INTERVIEW | CHOUJI


「音楽に生かされてる」──沖縄ヒップホップシーンの重鎮が振り返る半生、この先の展望

2024.08.28

石垣島出身、沖縄本島を拠点とするラッパー・CHOUJI。同郷だけでなく様々な地域のアーティストとのコラボ作を含め、その多作ぶりは他に類を見ないアーティストだが、その一方でメディアでの露出は少ない。

しかし、Awichが牽引する形で何度目かの大きな盛り上がりをみせる現在の沖縄ヒップホップシーンを、CHOUJIを抜きにして語ることは決してできないだろう。ラッパー/ビートメイカーでありながら、自身でスタジオや飲食店、アパレルストアなども運営する実業家でもあり、若手ラッパー/アーティストへ機会を提供し続けている。“好きなこと”で大きなバイラルヒットを記録した柊人がその最たる例だろう。

7月に東京・渋谷HARLEMにて行われた初のワンマン公演には客演、観覧ゲストも含め沖縄の若手〜ベテランまで錚々たる面々が集結。フロアからも沖縄の方言が飛び交うなど、まさに“しーじゃー(お兄さん)”的存在として多くの人々から愛されていることが伝わってきた。

ワンマン前日に行った本インタビューでは、今も沖縄を拠点にシーンを耕し続けるCHOUJIに、これまでの足取り、そしてこの先の展望についてじっくりと語ってもらった。

Interview & Text by Takazumi Hosaka
Photo by TETSUYA SHIMOYAMA a.k.a.TET$
Special Thanks:Hidemoto Kawahara


「音楽がなかったらもっとダメになっていたかも」

――石垣島在住時は、どのような少年時代を過ごしていましたか?

CHOUJI:今とあんま変わらないと思います。子供のまま大人になったような感じなので。5人兄弟の末っ子なので、基本的には可愛がられていたんですよね。石垣島では高校を卒業したら基本的にみんな島を出るんですけど、結構歳が離れているので、中学校くらいのときには兄弟がもう全員いない、みたいな。それが耐えられなくて、親に迷惑をかけるようなことばかりやっていましたね。わざと捕まったりして。

――“OKI NAWA”では《15の夜に犯した過ちのせいで、16にはもう飛ばされ母と2人で》と歌われています。石垣島を出たのはそれくらいの歳の頃でしょうか?

CHOUJI:17歳になる年に出たと思います。何回か捕まったりして退学になったんで、それで出て行きました。

――CHOUJIさんの昔のプロフィール文に、「2005年に初めて見たCARSHOWでの言霊MAFIAのLIVEを見て衝撃を受け興味を持つ」と書いてありました。改めてヒップホップとの出会いについて教えてもらえますか。

CHOUJI:もちろん言霊MAFIAを見る前からヒップホップは聴いてたんですけど、日本語のラップは聴いたことがなかったんです。というか日本語じゃできないと思ってました。当時の流行りもあったと思うんですけど、西海岸のヒップホップは自然と耳にしていましたね。本島に出てきて車の免許取って、車の中でCDかけたいじゃないですか。それでいろんなところにミックスCD買いに行ってたら、自然とハマってましたね。

――言霊MAFIAのライブを観て以降、どのようにしてご自身でラップを始めたんですか?

CHOUJI:TSUTAYAにCDを借りに行って、シングルとかにインストver.も入ってるじゃないですか。それでインストを集めて、それに合わせてリリックを書いて。録音機材も少しずつ買い集めて。

――それでCD-Rを焼いたり。

CHOUJI:最初はカセットテープでしたね。それが20歳くらいかな。ずっと(音楽を)やってはいたけど、表に出たのは結構遅くて。作り始めてから初ライブまで2〜3年かかりました。周りに音楽やってる仲間がいなかったから、自分で探り探りやるしかなくて。知らない人にもテープ配ってました(笑)。

――初ライブはどのようにして実現したんですか?

CHOUJI:言霊MAFIAが出ていたCARSHOWへの出演権をかけたオーディション企画みたいなのがあったんです。どうしても出たかったらから応募して、そしたら通過して無事にライブできたっていう感じですね。

――それから音楽活動は加速した?

CHOUJI:それからはカセットをCD-Rに変えて、イケてる女子高生に配ってましたね。当時は未成年でもクラブに入れたんで、広めてくれるかなと思って。あと、まだガラケー時代だったけど、自分でホームページとかも作ってました。沖縄は狭いんで、「CD欲しい」って連絡きたらすぐに届けに行って。そうこうしてるうちにイベント出たら結構人が集まってくれるようになったんですよ。

――働きながらそういった活動をされていたわけですよね。当時の原動力はやはり「楽しいから」の一言に尽きますか?

CHOUJI:自分でもよくわからないんですけど、やっぱり好きだからっていう感じですかね。今でも誰に聴いてほしいとか、反応がほしいとか、そういうのは一切なくて。毎週のように曲を作って、その作ってる瞬間が一番楽しい。ビート作って、リリック書いて、「今日はこんな曲できた」っていう感じで、シレッとリリースする。それは昔から変わらないですね。ライブももちろん楽しいんだけど、別物という感じで。

――当時はどのような仕事をされていたんですか?

CHOUJI:金貸しです。別にそうなりたくてなったわけじゃないんですけど、求人情報誌に「土日休み、バイク支給、月給15万円」って書いてあったらそりゃ行くじゃないですか。家からも近かったし。それで面接を受けに行ったらスーツ着てる人たちの中で自分ひとりだけドゥーラグ巻いて私服だったんです。でも、そういった大卒のやつら全員落とされて自分だけ受かって。結局そこで21歳くらいから10年くらい働いてましたね。

1日12時間以上働いてたし、土日休みって書いてあったけど実際は社長のお世話というか、パシリみたいな感じで365日休みなしみたいな感じで。かなりキツかったんですけど、だからこそ音楽にすがっていたのかもしれないです。音楽がなかったらもっとダメになっていたかもしれない。

――それこそ、同時並行で育児もスタートするわけですよね。

CHOUJI:子供に関しては、1人目はほとんど嫁に任せっきりでした。生活するのにいっぱいいっぱいで、それなのに週末は音楽関係で埋まってたりする。それでも音楽はやめられない。本当に、嫁には頭上がらないっす。神です。2人目くらいから徐々に子育てを手伝えるようになって、今年1月に3人目が生まれました。

――仕事はどのようにして辞めることになったんですか?

CHOUJI:31歳くらいで独立する形で辞めました。なので、金貸し自体は2〜3年前までやっていて、それでやっと音楽メインで食えるようになった感じですね。自分は自営業の人専門で貸していたんですけど。

――事業者向けの融資というか。

CHOUJI:そうです。昔は集金も頑張ってたけど、自分も余裕が出てきてからは「返せるときに返してくれたらいいよ」っていうスタンスでやるようになって。それでやっと2〜3年くらい前にほとんどの人が返してくれて、足を洗ったという感じですね。


「たぶん日本一だった」──〈604〉の勢い

――2016年リリースの『B面』からストリーミングサービスでの配信がスタートしています。それ以降で何かご自身を取り巻く環境は変わりましたか?

CHOUJI:『B面』の前にたぶんアルバム15枚くらい、ミックスも10枚くらい出してるんですよ。配信に関しては、実はTuneCore Japanの中に知り合いがいて。立ち上げてすぐに沖縄にも営業しにきたんです。「今登録したら手数料が1ヶ月無料になるよ」とか言われて、それで始めたっすね。

CDの手売りはすぐに現金が手に入るし楽しかったんですけど、配信は配信でいろんなデータを見れたりしておもしろいですよね。自分がやることはそんなに変わらないですけど。

――ちょうど同じくらいの時期、唾奇さんやCHICO CARLITOさんが頭角を現しはじめ、沖縄のヒップホップシーンも大きな注目を集めました。

CHOUJI:CHICOは東京の大学に通ってるときに、自分らの知らないところでフリースタイルバトルで有名になって。1ヶ月のうちに3本くらいデカい大会で優勝したり、それで『フリースタイルダンジョン』に出演するようになったりしたんですよね。沖縄にも帰ってきてちょくちょくライブもしていて、最初は全然人も入ってなかったんですけど、唾奇とか〈604〉のやつらの登場で一気にいったっすね。

※唾奇やMuKuRo、HANGなどによるクルー。現在はそれぞれ個々で活躍している。

――当時は外から見ていても、沖縄で何かが起こっているような印象がありました。

CHOUJI:あの頃はすごかったですね。クラブに行けば唾奇たちが着てたブランド、〈ROKKAN〉とか〈Cherrypick〉の服をみんなが着ていて。関係者全員が潤ってる感じがした。純粋に「ヒップホップってすごいな」って思いましたもん。唾奇は1500人くらい入るナムラホールのライブを即完させたりして。時代の流れもあったけど、自分たちの力だけで波を大きくして、ファッションもバチッとハマってたし、そのときの勢いはたぶん日本一だったと思います。

――CHOUJIさんの同世代にもプレイヤーの方たちがたくさんいましたか?

CHOUJI:いたけど、30歳くらいになるとみんないなくなりましたね。子供ができたり、お金の問題だったり。ただ、自分の場合は辞めるとかもないというか。曲を作れていれば何でもいいし、食えなければ働くしっていう。自己満だから、別に誰も聴かなくてもいい。

――先ほど「音楽にすがっていた」とおっしゃっていましたが、音楽に救われた、救われているという感覚はありますか?

CHOUJI:救われたというより、音楽に生かされてるっていう方が近いです。日記みたいにいいことも悪いことも全部リリックにするし、誰かに伝わってほしいという気持ちもない。超個人的過ぎて伝わらないだろって思うし。

――CHOUJIさんのリリックは自分に向けて書いているように感じることがあります。

CHOUJI:自分と仲間へ向けてっていう感じですね。ライブで全国回るようになって思うのは、どこ行っても世代問わずみんなが同じような悩みを抱えてるってことで。お金のこととか仲間のこととか。だから自分の半径数メートルのことを書き続けるのも意味はあるのかなって。

――それこそ2018年リリースの“奮闘中”は、まさしく極私的な思いを綴ったリリックが多くのリスナーからの共感を呼んでいます。あの曲は現在CHOUJIさんのディスコグラフィで最も再生されている曲になっていますが、いつ頃から伸びてきたのでしょうか。

CHOUJI:自分もよくわかってないんですよね。コロナ禍始まるくらいまでは“バッズマン”の方が再生されてたんですけど、そこから2年くらいでバーっと伸びていって。もしかしたら時代的にもハマったのかもしれないっすね。みんな奮闘してるのかも。

――たしかに。決して明るい時代とは言い難い状況が続いていますし。

CHOUJI:あの曲を書いたとき、先輩から200万を借りて金貸しとして独立して、1週間で全部貸しちゃったんです。音楽の収入も今ほどなかったし、一旦ゼロになって、ここから頑張らないと食っていけないぞっていう状況。なんか怖くなって、自分に言い聞かせるように“奮闘中”を書いて。今はそれに救わているっていう。


「生きるためにハングリー」──ジャマイカで受けた衝撃

――“奮闘中”の他に、ご自身の活動においてターニングポイントになった楽曲や作品はありますか?

CHOUJI:曲じゃないんですけど、2〜3年前からジャマイカに行くようになって。レゲエのルーツを探るようになったんですけど、それは完全にターニングポイントでしたね。最初はヒップホップのルーツをちゃんと知ろうと思って、NYのブロンクスに行って。DJ Kool Hercがブロックパーティを開催していた地域とか、ビギー(The Notorious B.I.G.)の家の周りとか、みんなカリビアンが住んでいるエリアなんですよね。そもそもビギーの両親はジャマイカ系移民だし。

CHOUJI:言ってしまえばレゲエがなければヒップホップもないじゃないですか。それでレゲエを勉強しにジャマイカへ飛んで、Bob Marleyのお墓も見に行ったりして、めっちゃ感動したんですけど、一番喰らったのは人なんですよね。

――現地の人々ですか?

CHOUJI:街の在り方とか人々の生活ですね。物価が日本より高いのに、時給300円とか、警察官の給料も一ヶ月8万円とか。だからカツアゲが当たり前だし、強盗が職業みたいになってる人もいる。なんていうか……ゼロか100かで生きてる人ばっかなんですよね。みんな生きるためにハングリーというか。そこに感化されましたね。向こうではパーティだって生きるためにやるんですよ。やっぱり中途半端はダメだなと感じました。

――なるほど。

CHOUJI:キングストンなんて、本当にぶっ飛んだ街で、言ってしまえば世間一般的な「ジャマイカらしさ」なんてないんですよ。ギャングの街だし、治安は最悪。でも、だからこそ夜のダンスがクッソおもしろいんですよ。ピリピリしているというか。

昼も同じで、サッカーしに行ったら、「今日はもう終わり。やめよう」って言われて。「どうしたの?」って聞いたら、銃撃があったと。だから今日は家にいようかってなったんです。それで次の日に、「昨日、どうだった?」って聞いたら、「2人死んだっす」みたいな。そうやって毎日のように殺し合いをしている。でも、街で俺らが困ってたら親切に助けてくれたりもするんです。

――現地に行かないと理解できなさそうな感覚ですね……。

CHOUJI:あと、音楽が国の大きな収入源っていうのもヤバいですよね。みんなゲットーから抜け出すことを目指してる。レゲエディージェイもそうだし、ダンサーも。歌ってる人はギャングのボスであることが多くて、音楽で稼いで仲間を養ってたりする。そうやって地元に貢献しないとダメなんですよ。

ジャマイカにいるときは毎日ダンスに行ってたんですけど、自分が前から知ってたくらい有名なBounty KillerとかBeenie Manも毎回のように現場にいて。若者を連れて、お酒を奢ってあげたりしてる。で、地元のそういうしがらみが嫌なやつはマイアミに移住する、みたいな。

……それって沖縄にも通ずる部分があるような気がするんですよね。自分が売れたら、ひとりでおいしい思いするんじゃなくて、スタジオを建てて若いやつらに使ってもらう。そうしないと逆に俺の未来もないっていうか。ちょうど自分の上と下の世代が結構断絶してて、それはもったいないって思うんですよね。ちゃんと今までやってきたことをカルチャーとして語り継いで、下の世代の奴らも同じようにバトンを次へと繋げていって欲しい。そうやって沖縄のシーン全体でネクストレベルに行きたいですね。


「“こいつヤバいな”って感じたやつに、死ぬ気で音楽をやらせてみたい」

――CHOUJIさんが運営されているDGH STUDIOはTuneCoreのスプリット(収益分配)機能を使用して、誰でも無料で使用できるようにしているそうですね。

CHOUJI:ビート持ち込みなら、レコーディング、ミックス、マスタリング込みで10%、ビートもこっちで用意するなら20%、さらにMVも制作するならまた10%上がるという形でやっていて。全然元は取れないですよ。それでも今年で3年目を迎えました。

――DGH経由でリリースされた楽曲が1000曲を超えたそうですね。

CHOUJI:はい。収益もだんだん上がってきて、これまでかかった費用は全然回収できないけど、今月の費用はなんとか賄えるかなっていうところまではきました。ラッパーだけじゃなくて三線弾きのおじさんとか、民謡歌手も使ってくれています。

CHOUJI:今、一番若いのが16歳くらいの子で、その上の22〜3歳くらいのやつらもどんどん曲をリリースしていて。「今月、5万入ったっす」とか言ってくるから、「止まらずにどんどん続けた方がいいよ」って言ってるんです。そいつらがバーンといったら、マジであと2〜3年後にはビル建つんじゃないかなって思うっすね(笑)。最初は大変だったけど、これからは上がり続けるしかないので。

――でも、それは長い年月をかけて先行投資し続けてきたからこそですよね。

CHOUJI:投資しないと意味ないじゃないですか。今後の話でいうと、DGHとしてメディアとかレーベルみたいな役割も持ちたいなと思っていて。柊人が良い例ですけど、直感的に「こいつヤバいな」って感じたやつに、死ぬ気で音楽をやらせてみたい。昔はそういうまだ誰も知らないアーティストを紹介するメディアも多かったけど、今はちょっと有名になってきたやつらに乗っかるようなメディアばっかりじゃないですか。

――耳が痛いお話です。

CHOUJI:それくらいやらないと、シーンの底上げにならないと思うんですよ。Lil Babyは地元の先輩とかから環境を整えてもらって、それで音楽に集中してバコーンと売れたけど、それと同じようなことをしないとなって。

――DGH STUDIOは現在どのような体制で運営されているのでしょうか。

CHOUJI:これまでは俺とマイメンのLeofeelだけでやってきたんですけど、最近21歳の若いやつが入ってきて。エンジニアとしてお互い刺激しながら、かなり伸びてきたんですよね。やっぱり歳が近い方がやりやすい部分もあると思うので、若いアーティストからも結構人気で。

あと、うちのスタジオを使ってくれてる若い子らには機材のこととかも教えてあげて、宅録とか自分たちのホームスタジオを持つ奴らも出てきて。ただ、レコーディングはできてもまだミックス、マスタリングは自分たちではできないから、そこをうちに委託してくれたり、そういう形態も増えてきましたね。

――まさしくシーンの底上げですね。CHOUJIさんが個人的に今、注目している沖縄の若手アーティストなどはいますか?

CHOUJI:うーん……とりあえずDGHのプレイリストの上の方をチェックしてもらえたらなって思います。プッシュしたい曲ほど上にいくようにしてるので。

――CHOUJIさんが運営されていた天ぷら屋さん「てんぷら みやら」の移転を機に、DGHはアパレルショップも立ち上げましたよね。

CHOUJI:はい。「みやら」も柊人に立ち上げてもらってから3年くらい経ったんですけど、国際通りの方に移転することが決まって、売上もめっちゃ上がると思っていたら、加熱処理なんとかっていう許可が取れない物件で。それで諦めて、前から構想を練っていたアパレルをスタートさせました。


自身の役割と守るべき場所

――コロナ禍以降、Awichさんが牽引するような形で再び沖縄のヒップホップシーンが大きな注目を集めています。CHOUJIさんの目にはどのように映っていますか?

CHOUJI:めっちゃ盛り上がってるなって思います。自分もその波に乗りかけてるのかなって思うけど、乗りたくないんですよね。自分には自分の役割があるし、守るべき場所もあるから、あまり外に引っ張り出されても困るなって。

――適材適所というか。外にガンガン出て引っ張っていく人もいれば、沖縄に残ってシーンを守る、盛り上げる存在も必要ですよね。

CHOUJI:そうです。CHICOとかオズ(OZworld)たちが表舞台に出る役割を担ってくれているから、そこは彼らに任せて。あと、シンプルに自分は曲を作るのが好きで、別に有名にもなりたくない。だからラジオとかテレビとかも出たくないし、基本的に取材も断ってます。

ただ、今の流れは止まらないと思うし、どうなるのか楽しみにはしています。だからと言って俺ら上の世代が若い子たちをフックアップするだけじゃダメだとも思うんです。サポートするところはサポートするけど、ちゃんと下積みから自分たちで考えて動いた方が絶対いいと思う。漠然とシーンが盛り上がってるって思われるんじゃなくて、それぞれのアーティストがしっかり独り立ちしてないと意味ないですし。

――それこそ、今はSNSなどでいろいろなステップを飛ばして脚光を浴びるアーティストもいますよね。

CHOUJI:自分も若いときはいい車乗りたいとか女の子にモテたいとか、そういうことも考えてましたけど、結構早い段階で「そうじゃないな」って気づきましたね。昔クラブでANARCHYさんが沖縄に来たときに、ライブ終わってすぐに「リリック書きたいから」って言ってホテルに帰ったのを見たんです。あとKOHH(千葉雄喜)も同じようなタイプで、クラブでもずっとリリックを書いていて。そういうアーティストを見て、やっぱりやることやってる人が上に行くんだなって思いましたね。

――なるほど。

CHOUJI:俺らみたいな人間が音楽で飯を食うって、本当に難しいというか奇跡みたいなもんだと思うんですよ。だから、普通の人より謙虚で勤勉でないとダメだし、人一倍努力する必要があると思う。

――とても染みる言葉です。最後に、今後のCHOUJIさんの今後の活動についても教えて下さい。近年はレゲエだけでなくアマピアノやアフロビーツといったアフリカ由来のサウンドを取り入れた作品も多数リリースしていますが、今のCHOUJIさんはどのようなムードですか?

CHOUJI:アマピアノって沖縄の民謡を4つ打ちにしてBPMを早くした感じなんですよね。たまに民謡に聴こえるときがあって、おもしろいから自分も挑戦してみました。まだアフロビーツっぽい曲もあるし、レゲエとかダンスホールっぽい曲もこれからリリース予定があるんですけど、今はもう一回ヒップホップに戻りたいと思っています。この2年でいろいろ吸収したんで、一回原点に戻りたいなって。ヒップホップだけじゃなくて歌謡曲や90年代のJ-POPも聴き返して、どんな作品ができるかなって。

――それはもうやってみないとわからないと。

CHOUJI:はい。やっぱりヒップホップが好きなので、今後も曲を作り続けて、その深い部分とか大事なところとかまで、受け継いでいければいいなって思いますね。


【リリース情報】


PERSIA & CHOUJI 『DELA HAISAI』
Release Date:2024.08.13 (Tue.)
Label:PERSIA & CHOUJI
Tracklist:
1. でいご
2. なるために
3. Ban
4. いつまで -以津真天-

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